墓碑または墓標は人間が存在したことの証である。それは、時代・民族・文化などの差異を超え世界の至る所に見られる現象であり、人間存在そのものの刻印である。生あるものはいつか死ぬ。その事実を自覚すること、それが人間の絶対条件である。しかしそこには不思議な条件が加わる。死ぬのは自分だがそれを葬るのは自己以外の他者が行う行為である、ということだ。ということは、生あるものは死ぬ、という条件以上に人間的な行為は死者を「葬る」という行為なのである。墓碑や墓標を作るのはその人間的な行為の結果である。
戦争で背後から敵が追ってくる。そこで戦友が銃弾を受け倒れて死ぬ。葬って祈る時間がない。にもかかわらず横死した戦友の亡骸のそばに近くに転がっていた石を置く、あるいはたまたまそこに繁っていた樹の下に亡骸を急いで引きずりながら運ぶ、それからまた逃げる。人間は他者の死を見逃すことが出来ず、生者と死者の区別をつけ、その亡骸に何らかの「印」を付けざるをえないのである。自分に危険がが迫り、一刻一秒を争うときでも人間はそのような行為をする。人間であるかぎり、そのような行為をせざるを得ないのではあるまいか。不思議というより他に言いようがない行為ではないのか。人間にとっておそらく、他者の死は自分の死以上の意味を持っているのだ。この行為が墓碑や墓標を立てる人間の意識的行為の始まりだと言っていい。人間の意識的な行為は他者への配慮をその根拠にしているのである。その逆転した姿として、自己の死のさいには、おそらく他者のことを思慮しながら死んでいくに違いない。それ故死にゆく人の遺言や感謝の辞は同じ意味を持っているのである。生きるとは、また死ぬるとは他者との関係を同時に維持していくことだからだ。
「旅人よ、ラケダイモン(スパルタ)に行かば伝えてくれ、 我らは、汝の命に従いて戦い、この里に横死せし、と」(シモニデス『墓碑銘』)
このシモニデスの言葉は道端のわきの石碑に刻まれている、アテネとスパルタとの戦いの際に戦死したスパルタの戦士達の行為を労って書かれた言葉である。シモニデスは、ギリシアの抒情詩人だが事あるごとに「墓碑銘」を刻んだ。「墓碑銘」はその人々の名誉を讃える詩句が歌われるのだが、どこか哀しい響きがある。それに刻まれた言葉は謎めいた哀しさを秘めている。
時代は下るが、19世紀半ばプラハに生まれ、世紀末を生き51歳で亡くなったドイツ語圏の抒情詩人リルケは、薔薇の花をこよなく愛し、多くの詩句を薔薇の花に託した。その薔薇の花の刺に刺されたのが原因で急性白血病を引き起こした感染症により、スイスのヴァリス州の病院で亡くなったと言われている。リルケが何故最後にスイスのヴァリスの地を選んだのか、リルケ研究者ではない私には分からない。ただリルケの墓がヴァリスのラロンというところにあるのは、何か分かるような気もする。その地に住む必然性がミュゾットの館で作った晩年の詩から伺われるからである。 ヴァリス(Wallis)とは谷の意味で、ヴァリスはフランス語圏の州なので、ヴァレー州と呼ばれている。この谷川を下れば音楽の都シオンの街があり、さらに美しい谷が長く続き、最後はレマン湖に注いでいる。当時リルケはヴァリス州のシエール郊外にあるミュゾットという館に住んでいた。晩年の詩はこの館で書かれた。病に倒れてからリルケは生前に自分の墓に刻んでほしいと次のような謎めいた詩を書いている。まさに遺言である。多くの意味、多様な隠喩や換喩を含んだ難解な言葉で詩的に書かれている。日本語に訳すのはほとんど不可能だ。ただ、リルケの歩んできた、多彩だがどこか不透明で孤独な人生のすべてがここに内包されているように思える。自分が愛する薔薇のように美しいものは、どこかに解明不可能な純粋な矛盾を内包している。この世界の読解は簡単ではないが、その矛盾故に、瞼の奥に隠された喜びもある、とリルケは最後に確信したに違いない。謎めいたリルケのこの遺言はわれわれに生きることの難しさと、単純に喜びとは言い切れない、矛盾した実の喜びがあることを告げているように思える。
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,       薔薇よ、そう純粋な矛盾よ、喜びよ、
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel      誰の眠りでもない、多くの瞼の奥に
Lidern.                                      隠された喜びよ。
リルケの墓は、そのヴァリス地方のラロンという街の小高い丘の上にある小さな教会の南側の壁に面して、今でもひっそりといつも薔薇を横に携えて据えられている。さほど大きくはない渋い茶色の墓石にこの詩が刻まれている。よく写真では、この墓石の周りに赤い薔薇が植えられているが、私がまだ学生だったころにそこを訪ねた時は、赤ではなく白っぽいあまり目立たない薔薇だったと記憶している。リルケの墓のある教会から少し下ったところに大きな新しい現代風の教会が建てられていた。それと対照的にリルケの墓はどちらかと言うと、古めかしく物淋しい雰囲気の中にあった。夏の終わりの静かな木漏れ日が墓石に落ちていた。その時見た、リルケの墓とその墓碑銘は、いまでも私に人生の謎を解くことの難しさを示し続けている。

One Thought on “墓碑銘

  1. 緒方宏司 on 2014年7月31日 at 6:44 PM said:

    墓碑銘のことを考えだすと、人の生死、生きざまなどあまりにも奥深く深く広すぎる命題だなあと思う。ただ自作のものと、送る人が残すものとがあるということ。自作のものはユーモラスな銘もあるらしい。
    古代ギリシア・ローマ時代にあえて道端(街道)に建てられたという戦士の墓碑には死んだ者と、道を通る生きている者との向かい合ったベクトルが作用しているようで考えさせられる。
    旅人に故郷のあるじと身内の者に自分の勇敢な死を伝えてほしいと、一縷の望みを託しているのだろう。また、できたら祈りのひとつでも乞い願っているのかも知れない。
    そこを通る旅人にとっては、くにのために戦ってくれた今はなき戦士に勇気をもらったであろうし、ある種の寂寥感も感じたであろう。
    墓石について近年「00家の墓」に代わって、例えば「ありがとう」とか「空」(ソラと読むのか般若心経のようなクウとよむのかはわからない)など個性的なものも出てきた。是非を言うつもりもないし時代の流れだろうけれど死者に対する思いは同じの筈。
    お墓参りをしたら、写真でしか見たことのないあるいはそれもない亡き人の墓誌に書かれた名前を時には指でなぞってみるのもいいかま知れない。それなりのえにしがある人だから、ルーツの一端を偲んで見てはと思う。

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