「猛き者も遂には滅びなん」と『平家物語』にある。
太宰治は『右大臣実朝』で「平家ハアカルイ、アカルサハホロビノ姿デアラウカ」と書いた。それに「國も人も、暗いうちは滅びませぬ」と付け加えた。以前から私はこの太宰の言葉をどう受け取ったらいいか、ずっと考え思い悩んできた。未だにその解決は見えていない。しかし最近「アカルサハホロビノ姿」というところは少し看取できるようになってきたような気がする。太宰にとって平家が問題だったのだろうが、私にはその辺のところはよく分からない。ただ源氏が主語になることはない、ということぐらいだけは感覚的に理解できそうに思う。
「滅びる」は「亡びる」とも記す。二つを合わせて「滅亡」という。ということは「滅び=亡び」だとすると、「ほろびること」は何かの終わりであり、完成でもあるということだ。それがやって来た時、もっとも美しいものが明るくやってくるのである。明るさは滅びの代償なのだ。そのような滅びていく姿を思い浮かべると、何故か自然と涙が出そうになる。寂しかったり悲しかったりするからではない。滅びるということ自体が自然な出来事であり、宿命でさえあるということに気がついた時、本当の「アカルサ」がやってくることを確知した証だからに違いない。
私はここで、グリム童話の「星の金貨」<Die Sterntaler>という物語を思い出している。一切れのパンと下着の上に薄い服を着、小さな靴を履き、かわいらしい帽子をかぶった貧しい姿の少女が、次々に出会う人に乞われて自分の持っているものをすべて上げ、最後に下着まで貧しい子供に与えてしまい、最後に身につけているものがすべて亡くなってしまった時、森の小径に続く小高い丘の上の空がパット明るくなり、星の金貨がその子供の上に空から舞い落るようにたくさんキラキラと降ってきた、というあの物語だ。貧しい少女が、全てを与えてしまい、何も身につけるものも亡くなった時、少女は軽くなり最も美しくなったのであり、その時少女に空から星の金貨が降り注いでいる。やさしくうつくしいあかるさがそこにはある。1995年日本テレビがにこの「星の金貨」の物語がもってる美しさ、優しさ、明るさを基底にしたドラマを作った。話の内容や筋書きは全く異なるが、薄幸な少女が自分が思っているものをすべてを与えてしまおうという基本構造は、グリムのこの物語を踏襲している。酒井法子が耳が聞こえず声が出ない少女を演じ、大沢たかおと竹之内豊が腹違いの兄弟を演じていた。あの時の酒井法子はよかった。少女のやさしさとはかなさがよく出ていた。手話でしか話せない少女がこころをこめて自分の思いを伝えようとする姿に皆感動し、考えられないほどの視聴率を取り、巷で手話が流行したほどだった。私はいつも、このドラマに、その原型になったグリム童話の「星の金貨」という物語の最後の光景を、全てを与え終わった時、空から星の金貨が眩しいほど降り注いだ、という少女の姿を重ね合わせて見ていた。時代や背景は違っても、深いところで原作とつながっているところが感じられ、今思い出してもいいドラマだったと思う。ただ『続星の金貨』になると、話が込み入りすぎて、グリム童話の『星の銀貨』本筋から離れ、遠くに行き過ぎてしまった感はあるが、現代のテレビドラマとして「どのように終わらせるか」は難しかったのだろう。
[グリム童話の原題”Sterntaler”は正確には、言語的にも『星の銀貨』が妥当な訳語だが、ここではこのドラマに合わせて『星の金貨』のままにしておく]
人間の人生はそううまく行くものではない。さまざまな重圧に耐えていかなければならない。それは毎日誰しもが経験していることだ。所有欲を捨て「無一文」とか「無所有」を心がけると人生「楽になる」とかいうことを宗教家はよく言うが、それは説教でしか無い。大切な教えだとは思うがリアルさに欠ける。それに対して「星の金貨」の貧しい少女が下着まで与え、はだかになったとき、空から金貨が星のように明るく少女に降り注いだ、という光景は単なる幻想ではなく、また物語のなかの一挿話でもなく、人の世のあらゆる物象が「滅び、滅んでいく」とき現れる、リアルでしかも明るく美しい実の姿のように思えてくる。「アカルサハ ホロビノ姿デアラウカ」という言葉は、何かに耐えてきた長い道程の「最後の言葉」になりうるような気がしてくる。

One Thought on “「滅びる」ということ

  1. 緒方宏司 on 2014年7月18日 at 12:16 AM said:

    「滅びる」とは確かにアカルイと思える。滅亡は衰退、衰亡とは異質なものだろう。瞬間的な消失なのであろうか?まるで星の最後、超新星でしょうか?すごく明るくかがいて滅びるとのこと。ただし超新星はその代償として新しい命の星の誕生を迎えることになるそうです。人類の生命は有限という宿命だから「アカルク滅んで」いきたい。だけどまだまだ「暗いウチ」のままでいい。我々の心はまだまだ成長段階、発展途上だから色んな夢を持ちたい。
    そして「本当のアカルサ」を持ちたい。
    グリム童話のくだりを読んだとき、なぜか私は芥川龍之介の「大道寺信輔の半生」を思い出した。「友だち」の章で彼の富豪な友人が銅貨を「潜り」の少年のために海に投げ込んでやった。そこに一人の海女もいた。
    「今度はあいつも飛び込ませてやる。」
    彼の友だちは一枚の銅貨を巻煙草の箱の銀紙に包んだ。それから体を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらりと光りながら、風の高い浪の向こうへ落ちた。するともう海女はその時にはまっ先に海へ飛び込んでいた。信輔は未だにありありと口もとに残酷な微笑を浮かべた彼の友だちをおぼえている。彼のともだちは人並み以上に語学の才能を具えていた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬歯を具えていた。(第六章 「友だち」より)
    最近のテレビニュースで、アメリカの大富豪がお金をあちこちに隠しておいてインターネットでその場所のヒントを出し、一般人がそれを探し当てわが物のし大喜びするという話題。何とも嘆かわしくて、やりきれない気持ちになった。その大富豪は大道寺信輔の友だちと同じように「残酷な微笑」を浮かべてるに違いない。
    この人たちはグリム童話の少女のように今必要な人になけなしの金品を恵んだのとはまったく次元が違う。自分たちに何の支障もない、困りもしない範囲内で、しかも恵んだ相手の行動を高所から「残酷な微笑」を浮かべながら眺めている。この人たちには決して、童話の少女のように「星の金貨」は舞い降りて来ない。またそれは許されない。「鋭い犬歯」をもっているから……….。

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