今年の夏は暑かった。毎日のように新聞やテレビに「猛暑」とか「酷暑」とかいう言葉が飛び交った。気象庁が今年の夏を「異常気象」と名づけて一件落着し、皆それに納得した。今夏は「異常気象」だったのである。しかし、「異常気象」と呼ばれる理由を考えると、ことはそう簡単ではないことがわかる。もし来年またこのような現象が続くなら「異常気象」と言う言葉は、今夏とは異なった現象の名前となるだろう。通常が異常になり、異常がいつの間にか通常になってしまう。とすれば、そもそも「異常」などと言うことに意味があるのだろうか。もしそれに意味があるとすれば、ああ、やっぱりそうだったのかと、その時、事後的に確認するときであろう。しかし、その納得は動かない固定した意識としてとどまることはないに違いない。人間は変わってしまうことに驚き、一時はある抵抗はあっても、それが続くとそれが普通のこととなり、それ以上は考えなくなってしまうらしい。人間はこれまでそのように適応して生きて来たに違いない。まさに「時の流れに身をまかせ」て来たのである。しかし、現今そうは行かなくなってきた感がある。限界状況に出会った時が問題なのだ。「限界状況」とは「もはや慣れることが出来ない」事を言う。その時、基準、規則、規律と言った概念自体が意味を持たなくなり、抵抗は愚か「成るように成るさ」という達観や諦めさえ意識から消えていくだろう。そんな時が近くに来ているとしたら。

世の中に変わらないものはない。この原則は、地球上どこの地域、どの民族にも共通した認識らしい。「諸行無常」とか名づけた仏教の特許ではない。問題は、変わりゆくものに対する人間の考え方と、それに対する自分の関わり方だ、と最近考えるようになった。さらに、人間の諸行だけではなく、自然と呼んできた地形、気候、風土なども同様に変化するが、それも人間にとってのことであって、宇宙・自然自体が変化するのではない。「変化する」という事実を認知する主体が必要だからである。どう考えても今のところ、その主体とは人間以外には考えられない。そういう考えは「人間主義」で危険である、などと言わないでほしい。人間主義を否定するのもまた人間だからである。そのことから、ここでは「変化することとはどういうことか」を考えてみたい。ちょっとだけ文明人であることをやめて、未開人にもどって考えてみよう。バルザックによると、当然の事を馬鹿みたいに真剣に考えるのは「農民と田舎者と未開人」だけだそうである。もし「異常気象」にその原因と責任があるとすれば、実質的にも象徴的にも「農民、田舎者、未開人」には決してありえないだろう。未開人に「自意識」がなかったからではない。逆に「出来事」と「自意識」とのあいだには必ず乖離があり、それがうまくいかないことをよく知っていたからである。
実は「異常気象」とかいう言葉が使われてすでに久しい。北極や南極大陸の氷が溶け、シベリアの永久凍土にも変化が起き、太平洋の水温が上がり、これまでそれぞれの地域に固有だった気象に変化が起きてきているという。その認識から「地球温暖化」や「異常気象」という言葉が流行するようになった。今夏もその流れの一環とも言える。
しかしよく考えてみると、気温が上がって凍土が溶けようが自然自体に変化が起きているのではなく、なるようになっているだけのことである。ただし、そう考えるには条件がある。あるいはなぜ、自然に変化が起きているとか言えるのか、しかもその現象に意味を持たせることが出来るのか。それを言うには条件が必要である。人間を自然と同一視し、人間を特殊な存在と考えないと言う条件が必要である。しかしそう考えることは不可能である。同一なものが同一なものを同一と考えることは不可能だし、意味が無い。なぜなら同一なものというためには、差異というものが存在していなければならない。差異が存在して初めて同一であることが意味を持つし、また逆に同一ものがあるということから差異の意味が発生するからである。その議論は堂々巡りで出口がない。西田幾多郎はその条件を人間の「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。西田のいう主客未分な「純粋経験」も経験以前に存在する事実ではなく、要請された仮象である。仮象であることを認めて初めて意味を持つようなものである。そもそも人間は絶対矛盾的存在なのである。ここでこれ以上この話を続けるつもりはない。ただ、未開人は「絶対矛盾的自己同一」の世界を逆説的に、我々近代人よりよく知っていたに違いない、とは言えそうな気がする。
もし「異常気象」というような言葉をつかって自然現象をとらえるなら、いつかずっと以前に、自然からはみ出た存在の出現が不可避であったということを認める必要がある。それがいつどのようにそのはみ出た存在が出現したのかには理由や根拠が存在しないから、ここではその出現に対して「いつ、なぜ」は問わないことにする。ただ、そのはみ出た存在が我々人間だったことを確認することは必要だろう。原始人もまた人間である。自然からはみ出たからこそ彼らは自然が変化することを認識せざるを得なかったのである。その結果全く無意味に流れていた時間に名前と意味を付加することになったである。それがよかったのか悪かったのかは簡単に判断がつかないが、その必然性はあったというべきであろう。天体の運行が円環していることと、それに連れて何かが起こってくることによって自然の変化に気がついた時、人間は、年、月、節、気、候などの名前をつけ、自然の流れを切断しその流れに意味を与えようとしたのである。その時間の切断と命名に、自分たちの行動の意味付けを試みそれを行事と呼んだのである。行事は自然な流れの変化と人間の営みの関係の別名だったのである。ただ、古代の行事は古くなればなるほど自然の運行に即したものであったが、現代の行事は自然との関係が希薄になってしまっただけである。毎日のように行われる行事は、それぞれの理由により全く恣意的なものになってしまったのである。会社創立記念日や小学校の父母の会のように。その自由さから、例えば、古くから季節の72候と呼ばれた区分は、残念ながら特殊なものを除いて現代人には無縁なものとなり、名前も忘れられてしまったものが多い。人間は自由を獲得していくに連れ、ますます自然からはみ出してしまったのである。未開人は潔くその乖離を認めていたからこそ、その乖離がもたらす矛盾を美しさの感情に変える術を知っていたのである。
「異常気象」と呼ばれた今夏の暑さには、様々なことを考えさせられたような気がする。

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